2009年8月7日金曜日

酒井法子容疑者報道における「こじつけ」

NHKのニュースで、酒井法子容疑者報道における「こじつけ」がちょっとひどい。
(リンク先はWikipediaの記事です。
Wikipediaの特性を考慮した上で参照して下さい。)

引用1
最高裁判所の広報映画『審理』(2009年)
裁判員に選ばれた主婦役の台詞
裁判員に選ばれると、自分自身の人生(生き方)が問われていると感じる、だから、責任を持って生活をしていかないと思う
(内容はうる覚えです。)

引用2
1995(平成7
年の紅白歌合戦『碧いうさぎ』の歌詞
今の
今の二人を救えるのは 真実だけだから
(これもうる覚え。)
作詞は牧穂エミ。

この二つをもって
「かつて作品中で容疑者はこんなことを言っていた/歌っていた」
というのは、まったくもってこじつけでしょう。
脚本家・作詞家に対しても失礼です。
こういった事件をおもしろがっていると思われかねない構成には賛成できません。

念のため付け加えておきますが、だからといって酒井法子容疑者を擁護するつもりもありません。
現時点では糾弾するつもりもありませんが。

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2009年8月6日木曜日

Twitter 始めました

前期の間は全く更新しなかった・・・。
簡単な近況報告はTwitterの方が手軽でいいかも。
右側に最新の5件を表示するようにしています。

フォローする対象は今のところ勝間和代さんと津田大介さんがメイン。
広瀬香美さんはつぶやき量が多すぎるので、フォローをやめました。
実名で公開チャットしているみたいで、おもしろいこともあるんだけど、マスプロ化したつぶやきには関わり方が正直よくわからない。

Twitterについては持ち上げる人とけなす人がいます。
日常で役に立つ、という実感を得られることはあまりなさそうなので、「つまらなかった」という感想はもっともです。
双方向的に活用できれば、e-mailやホームページ公開、ブログやSNSの黎明期のような、ネットを通じての人間関係の構築・維持に魅力を感じることでしょう。
有名人のようにマスプロ化したTwitterは、フォロワーからあれこれ情報を提供してもらえる(おねだりできる)「えさ場」として、とても有用なんでしょうね。

フォローすることでプロモーションしたり、フィッシングしたりすることがどんなユーザーにも起こっていることが、始めてみてわかりました。
それがわかったことは成果ですね。

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2009年3月4日水曜日

むすんでひらいて(2)

家人が見ているテレビをついうっかり見てしまう。
日本テレビの日本史サスペンス劇場(「夏目漱石とその妻」2009年2月11日・当日出演者)もそういう番組のひとつだった。
この回は夏目漱石と妻・鏡子の関係にスポットを当て、鏡子は悪妻として漱石の頭痛の種だったという通説を覆すエピソードを紹介している。
Wikipedia「夏目鏡子」

問題は漱石がイギリス留学から帰り、『吾輩は猫である』を書き上げる間の出来事として、イメージ映像としてドラマ化された箇所だった。

気むずかし屋として、家庭内で孤立しようとしていた漱石。
精神の危機にある漱石を鏡子は支え、子どもたちも、そんな鏡子の努力の甲斐もあって、快活に成長する(・・・というような筋立てだったかな?正直、ここまではぼんやり見ていたので、間違っていたらご容赦を・・・)。

そこで、庭先で楽しそうに遊ぶ漱石の子どもたちが興じていたのが
「むすんでひらいて」

その瞬間に、玄侑宗久氏の講演を思い出さないわけがない!
明治時代に「むすんでひらいて」?
歴史番組でありながら、時代考証の細部にエラーか?
漱石がイギリス留学から帰国したのが、明治36年(1903年)。
『吾輩は猫である』の執筆は翌明治37年(1904年)の末。

戦後、文部省唱歌として広まったとされているこの歌だが、はたして、この時期に「むすんでひらいて」は、子どものお遊戯として存在していたのだろうか?

あり得ない?
・・・もうちょっと考えてみたいと思います。

続く。




その他の漱石の伝記・人物評伝へ(Amazon.co.jp)

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2009年2月21日土曜日

むすんでひらいて(1)

童謡「むすんでひらいて」が、今気になっている。

きっかけは、作家玄侑宗久氏の「ちょっとイイ人生の作り方」と題された
講演会だった。
メモを取っていたわけではないので、私なりに受け取ったメッセージをまとめてみた。
現代社会では、「むすんでひらいて」の精神を取り戻す時に来ている。
「むすぶ」とは、何かを決めること、守ることであり、昨今ではこれが行き過ぎて、かたくなという様相を見せている。
「ひらく」とは、結んだ事柄を解き放つことであり、「ひらく」ことによって、他者など、「むすび」の外側との回路を開き、決まり事、約束事、今守っている様々な物事を見つめ直すことである。
もちろん、ひらきっぱなしではまとまりがつかないが、むすぶことに汲々とすることはやめ、ときにはひらいたほうがよい。
童謡では、手を拍ってまたむすぶ。
むすんでひらくことをくりかえすことで、私たちの暮らしは豊かで余裕のあるものになるのではないだろうか。
氏は、仏の語源が「ほどける」とする説を紹介したり、日本文化が「ひらいて」型である証左として神仏習合をあげたりと、僧侶ならではの講演であった。

この講演から連想したイメージは、握手。
握った拳を向けあっての解決は、一方的な屈服でしかない。
いちど拳をひらき、相手の手を「結ぶ」ことで、新たな関係を築くことができる。

講演のメッセージ自体は示唆に富み、聞きに行ってよかった、というのが素直な感想だ。
プレゼンテーションの技法としても、
  1. 童謡「むすんでひらいて」を、会場の全員と歌ってて遊びするところからはじめた。
  2. 作曲家は誰か、と問うて、アタマにもウォーミングアップさせた。(答え:ジャン・ジャック・ルソー)
  3. 脱線しても童謡「むすんでひらいて」にかならずもどってくる。
など、よい実例を見る機会だった。

しかし、この講演は「むすんでひらいて」への疑問の始まりに過ぎなかった。
その後調べたところ、気になる点があった。
それは、講演の核心部分ではなく、導入部にある。

氏は講演冒頭で、この童謡をこのように紹介した。
ルソーの作曲ののち、我が国では賛美歌、唱歌、軍歌などさまざまな歌詞がつけられたが、第二次世界大戦の敗戦後に、文部省唱歌として現在の「むすんでひらいて」が登場した。
作詞者は不詳だが、この歌詞に込められたメッセージには驚嘆させられる。
そして、上記のように、講演は続いたのであった。
つまり、むすぶ時代からひらく時代へと転換させよう、というメッセージが歌詞に込められている、ということである。

残念ながら、事実は宗久氏の考えとは異なるようだ。
(つづく)

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2008年10月29日水曜日

シラーの名言「3つの時間」と現在完了

本日(2008年10月29日)、朝日新聞のコラムの最後に、ドイツの詩人・劇作家のフリードリヒ・シラーの名言が引用された。
天声人語2008/10/29(一週間閲覧可能です)

不格好だが、あえて原文の語順に近づけて直訳してみた。

三層になっている。時間の歩みは。
ためらいながら来るのは未来。引き寄せられて。
矢のごとき早さで現在は飛び去る。
永久に揺るぎなく立っている、過去。
(「孔子の言葉」)

"Dreifach ist der Schritt der Zeit:
Zögernd kommt die Zukunft hergezogen,
Pfeilschnell ist das Jetzt entflogen,
Ewig still steht die Vergangenheit."
- Sprüche des Konfuzius

さて、ここで気になったのが、「現在 das Jetzt」の行で使われている時制だ。
entfliegen の現在完了 ist ... entflogen となっている。
ドイツ語の現在完了は、過去時制と同じように使う(特に会話で)。
だから、
「現在は矢のように過ぎ去った」
と、過去の出来事として解釈すべき・・・?
「現在」なのにもう過ぎ去ってしまったの?

この疑問に答えてくれるのが、
 「未来的現在完了時制」。
未来の時点で完了している事柄を表現する。

「動作時点が観察時点の前に、観察時点が発話時点の後に、動作時点が発話時点の後にある」
(ヘルビヒ/ブッシャ『現代ドイツ文法』、三修社。手元にあるのは1993年の第5版、160ページ)
たとえば
明日の今頃は、ぼくは汽車の中
のような文章で使うのにぴったりだ。
汽車の中にいる自分を観察する(はずの)自分から見て、汽車に乗りこんだ時点はそれよりも(相対的に)過去。
しかし、この発言をしている時点では、観察者(になるはず)の自分も、汽車に乗っている(はずの)自分も、どちらも未来。
というわけで、反射的に思い浮かべたドイツ語訳がこれ。
In dieser Zeit des Morgens bin ich im Zug gewesen.

さて、シラーに戻そう。
過ぎ去る「現在」という瞬間は、「現在」である限り、絶え間なく「今」である。
「現在」に対し、思いをはせた時点で、その瞬間はすでに「過去」となっている。
現在形ではなく、現在完了による表現によって、止まることのない現在という、時間の不思議なありさまを、今回あらためて思い浮かべさせられた。

過去は立っているのだが、これは動詞 stehen の現在形。
「立っている」のは継続的な動作なので、立ち上がってから、ずうっと今まで立っているわけだ。
今まで・・・?と書いているこの時点は、はたして現在なのか、過去なのか・・・。

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2008年10月14日火曜日

イルカ漁の報道2008?

クジラとイルカの町として、ある意味国際的に有名な和歌山県太地町。
それは、この町がこういったほ乳類の漁をするからです。

GoogleNewsドイツ語版で、Japanと検索すると、この太地町でイルカ(海豚)の漁が始まった、という報道が引っかかってきました。
ブログ執筆時点のヒット数は
・8件(「関連度順」)
・171件(「重複を含めて日付順」)

全件に目を通したわけではありませんが、逃げ場を奪い追い込み、銛でトドメを刺す、海を地に染める残虐さを報道しているようです。
英語版のニュース検索でも、同様の記事が多くヒットします。
テレビニュースでも取り上げられていることも考えられます。

ここで、イルカ漁の是非を議論しようとは思いません。
問題にしたいのは、日本のメディアがこの出来事を報道していないことです。
「この出来事」というのは、イルカ漁のことではなく、今回のイルカ漁を海外メディアが批判的に報道している、ということです。

GoogleのNews検索、ブログ検索で
「太地 イルカ OR イルカ」
で検索しても、今年の太地のイルカ漁についてはヒットしませんでした。
もちろん、2007年などの、以前のブログはそれなりにヒットします。

欧米で暮らしてみると、
「日本人はなぜクジラを殺すのか?」
と尋ねられることがあります。
非難されることすらあります。
駅の看板に、日本の捕鯨を告発する意見広告を見たこともあります。

さて、今回いくつか拝読したブログに、
「外国でクジラやイルカの漁について聞かれたり、批判された」
というものがいくつかありました。
実際、こういう場面に立たされると、反論するか、一緒に日本批判をすることになります。
ときにはこの問題について、自分なりに考えておかなければ、相手の主張を一方的に受け入れるだけに終わってしまうのではないでしょうか?

そのためには、イルカ漁やクジラ漁の是非は脇に置いてでも、この出来事によって日本が批判の対象になっていることを、知らせるべきではないかと思います。

さて、私たちは韓国人に
「犬食べるの?」
と興味本位で聞いていないでしょうか?
どんどん聞くべきだと思います。
そして、韓国の文化や生活について、あれこれ知るようになればいいでしょう。
私たちも、ひとたび外国に出れば、興味本位で聞かれるのです。
どのように会話を返すのか。
もちろん正解はありません。
人それぞれに答えを用意するしかありませんし、相手や場面によっては、用意している答えだって多少のアレンジをすることになるでしょう。

2008年の太地のイルカ漁。
国内ではそれでもニュースとしての価値がないのでしょうか?
案外、フィルタリングや検閲だったりして。

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2008年7月11日金曜日

サミット終わって始まりの頃をふりかえる

7月7日付けの
radioeins / der schöne Morgen
で、日本特集をやっていました。
まずは、
「今日は日本ではタァナァバァタァ祭り、これはヴェガとアルタイルの・・・」
から始まり、
サミットを控えた現地の様子をARDのレポーターにインタビュー
「サミット会場は本当に僻地ですよー。
警備はテロというよりは熊を警戒しているくらいです」
のようなやり取りがあり、
司会は最終的に「半島Halbinsel北海道」と言ってコーナーを締めくくると。

・・・終わってから投稿するネタでもないですね。
興味のある向きは、早めに公式ページから音声をダウンロードしましょう。

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